

水の都広島を象徴するようなお祭りが、広島駅前にて行われています。
シンボルは広島最古の橋とされる「猿猴橋 - えんこうばし」
外と広島を繋ぎ大きく繁栄に貢献したこの橋にあやかりこのお祭りの絶対的テーマは「吉祥 - きっしょう」
猿猴橋と豊かさの象徴でもある川、そして地域に古くから根付く妖怪をキーワードに歴史文化を育みながらも、また新たなお祭りとなっております。


猿猴橋
えんこうばし

広島最古の橋とされる猿猴橋は、広島城下の西国街道に架かり、広島の「東の玄関口」として、古くから交通の要衝であった。
大正14年6月に着工された現在の猿猴橋は、鉄筋コンクリート連続桁となり、橋台には地杭52本、橋脚にはケーソン基礎を施工したほか、表面には石張りをあしらい美観にも配慮した。総花崗岩造りの高欄には、巨大な親柱・束柱も備わり照明燈まで内蔵されるという、重厚なものであった。極め付きは、親柱上に施されたブロンズ製の大鷹や、束柱上のシャンデリア風の電飾燈、高欄には橋名の由来ともなっている、2匹の猿が桃を持ちあう透彫り風のデザインパネルがはめ込まれるなど、絢爛豪華な橋は大正15年3月に完成した。
その後、太平洋戦争が激化する中、金属回収令によってこれら装飾品は供出され、さらに原爆投下により被爆するものの、幸いにも原形をとどめた猿猴橋は,国道の路線変更に加え上流に完成した駅前大橋への交通転換など、時代の移り変わりとともに「東の玄関口」としての役割を終えるのである。
平成20年7月に往時の姿を復元しようと、地元住民らが「猿猴橋復元の会」を発足。寄付金活動を行いながら、広島市に橋の復元を働きかけ、戦争や被爆の記憶を伝えてきた猿猴橋が、建造時の優美な姿によみがえった。
復元されたのは、四隅の親柱に設置された、地球儀をつかんで羽ばたく大鷹の像と、欄干の桃を掲げる2匹の猿の装飾など。
祭りのシンボル、広島最古の橋


復元なった猿猴橋の親柱等に表現された「吉祥 - きっしょう」(幸福・美・富を顕す)という言葉を、祭りの象徴とし、個人、家族の、また、ひろく広島また世界の「吉祥」を願うとともに、「吉祥」を、広島の玄関口に迎えるという祭事を基本に据える。

恋愛成就、家庭円満、商売繁盛とあらゆる吉祥の縁を結ぶシンボルです。その御輿のご神木となるのが猿猴橋を支えていた2本の松杭です。橋中で出会った男女の松杭は、「縁結び」の儀式としてロープで結ばれ合体します。

「吉祥」という言葉から連想される、「愛の幸福な成就」という意味で、縁交(縁が交わる)と縁結びを主題とした祭事を基本とする。なお、この意味づけから発展し、猿猴橋が日常的に「恋人たちのメッカ」となるような状況を作り出す。

大正15年から、昭和、平成の現在にいたるまでの、現猿猴橋にまつわる記憶を回顧するとともに、ひろく広島築城以来、広島の陸と川の玄関口であり、時代とともに多くの人物、文物、情報をむかえたこの地の記憶を回顧し、猿猴伝説や、広島今昔の歴史を紹介しつつ、新しい季節の到来をむかえ、次世代へ「はしわたし」するというメッセージを込めた祭事。

猿猴橋の「猿猴」というのもカッパ、妖怪の一族ですが、猿猴橋近くの稲荷神社には、三次市に残る妖怪物語「稲生(いのう)物怪(もののけ)録」に登場する稲生武太夫(いのう ぶだゆう)を祭神に祭っていることもあり、このお祭りには、春一番の妖気(ようき)に誘われて、妖怪や魑魅魍魎(ちみもうりょう)が集まり、人に若水をかけたり、脅かしたり人に悪戯をします。
猿猴川「河童猿猴」は、縄文時代から伝わるこの地の水神と考えられます。
広島城築城以前の猿猴川は比治山の北側あたりが川口で豊富な魚貝が獲れる場所でした。そこでは豊漁や水難防止を願う対象として、川神としてあがめ、祭ってきたことでしょう。
どのようにし伝説が広まったかわ定かではありませんが室町時代に大陸との交易が盛んだった中国四国、北九州の沿岸に猿猴という呼び名が広まっていることから、インド発の猿神がルーツであるという研究者もおられます。

河童猿猴伝説の地